基本情報
名前 | 斉藤 りか(齋藤 利華) |
生年月日 | 1967年6月9日 |
出身地 | 東京都杉並区 |
初当選 | 2023年(1期目) |
家族構成 | 夫・4姉妹(22・20・18・14歳) 義母の7人家族 |
資格 | 防災士 |
よく言われること | いつも自転車、小麦色、かわいい*、面白い** *)会話の中でZ世代が使う「あーね」「それなー」など使って会話をしているそうで、子どもの友達からよく言われます。 **)バレーボールの試合をテレビ観戦している時の歓声がおもしろいらしいです。まじで本気で応援。パリ五輪出場が決まった時は泣いた。 |
性格 | 社交的、庶民的、几帳面、こりない、めげない、へこたれない |
好きな人/もの | 高橋藍選手(男子バレーボール)、カラオケ、抹茶、かぼちゃ、栗、アイスクリーム、雑貨 |
好きなアーティスト | サザン、嵐、Vaundy、YOASOBI、Novelbright、back number |
趣味 | お菓子作り、コンビニスイーツ査定 |
好きな言葉 | 勇気、誠実、情熱 |
役職 | 保健福祉委員会 文化芸術・スポーツ・まちのにぎわいに関する特別委員会副委員長 |
所属 | 杉並区議会動物愛護議員連盟所属 |
これまでの歩み
低体重児からぽっちゃり! りかちゃん人形大好き幼少期
1967年6月9日、予定日より1か月早い2100グラムの低出生体重児で生まれました。
保育器の中で毎日太い注射を背中に打たれ、背中が亀みたいに膨らんでいた、と父がよく話してくれました。
元気に育つのか?との心配をよそに健やかに成長し、いつからかついたあだ名は「体育ちゃん」。
保育園で出される給食は食べ切れないので、いつも半分にしてもらうほど小食なのに、いつの間にかぽっちゃりさんに。
今度は「この子は何を食べてこんなに育っているのか?」と言われるありさまだったそうです…。
4歳の頃は「りかちゃん人形」にドハマリ。食器ボードにお皿やコップを並べる準備に1時間も費やしていました。
5歳の頃は山本リンダさん推し。ドーナツ版のレコードを買ってもらい、毎日お家で大熱唱していました。
母が念願のお弁当屋を開業!手伝いに明け暮れる学生時代
学生時代は帰宅部。母がお弁当屋をやっていたので、その店のアルバイトをしていました。
父も西荻窪で電気店を営んでおり、両親がそれぞれ自営業という環境で育ちました。
学校が終わるとお弁当屋に直行し、閉店まで店を手伝う日々。
母は料理が得意だったので、幕の内弁当は揚げ物から煮物までほぼ全て手作りでした。
さらに、「開いてると思って来たのに閉まっていたらお客様に申し訳ない。だから絶対お店は開ける」と開業当初は無休。お客様のために一生懸命な両親の背中をみて育ちました。
母から学んだお客様視点でモノ申す!社会人時代
新卒で会計士向けの事務用品販売会社に就職。
お客様窓口担当として、電話応対やクレーム処理などの仕事に就きました。
事務とはいえ、「もっとこうした方がお客様に伝わる!」と、業務改善にも積極的。
自分の小さな声で会社が少しずつ良くなっていく実感がありました。新規部門立ち上げの手伝いで、山形へ3か月の長期出張も経験させてもらいました。
9年間勤めたこの会社を退職し、実家の手伝いを経て、32歳の時に公明党の外郭団体である(財)公明文化協会に再就職。
国会議員の講演会の企画、運営が主な仕事でした。(この時は、まさか自分が議員になるなんて思いもしませんでした…。)
講演会に時間を作って駆けつけてくる議員、参加できなかったので資料が欲しいと連絡してくる議員、運営にあたる私に深々と頭を下げてお礼を言って帰る議員など、その姿に「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」と言う立党精神を学びました。
特売日に自転車4人乗り!まるでサーカスな子育て期
34歳の時に長女を出産。4人のうち、上3人はほぼ年子。
自転車で買い物へ行くときは、前に次女、後ろに長女&3女を乗せていました。(この4人乗りは今では完全にアウト)
買い物袋は両ハンドルに引っかけて帰ってくるというのがいつものスタイル。
ママ友達に「サーカスみたいだね!」とよく言われました。
生活は本当に大変でした。
ミルク、おむつは給料日に1か月分をまとめて買い。安いと聞けば、どこまでも自転車を走らせ買いに行っていました。
長女が5歳、次女4歳、3女1歳の頃から、公園遊びから帰って来るとお風呂へ直行。
上2人に3女を洗ってもらい、その間に夕飯の支度をしていました。顔にお湯がかかろうがお構いなし!たくましくなるわけですね。
父は徘徊なんてしてない!何度も泣いた介護期
長女が13歳の頃、父の介護がスタート。
週3日はデイサービスに通っていましたが、基本は自宅で、食事・入浴・散歩など身の回りの世話をしていました。
そんな父は道に迷うことがしばしば。私の家を目指して出かけたところ、道が分からなくなり帰れないとの電話。車がなかったので自転車で迎えに行き、父をタクシーに乗せ、私は自転車でタクシーを追っかけて…なんてこともありました。
ある冬の日は私が到着するまで、父をタクシーの中で待たせてくれた運転士さんがいらして、その優しさに胸がいっぱいになりました。またある夏の日には、迷子の父を迎えに行くと飲み物が2~3本置いてあり…。通りすがりのどなたかが、熱中症を心配してくださったのでしょう。
一番遠くまで行ってしまったのは埼玉県朝霞市。杉並区から自転車で1時間くらいのところですが、夜だったのでさすがに義弟の車を借りましたが、見つけるまでに4時間かかりました。
一番ショックだったのは、入院中に看護師さんから「お父さん夜中に徘徊するんですよ」と言われ、ベッドにバンドで固定されているのを見たとき。かわいそうで胸が張り裂ける思いでした。
一般的にみるとそういう傾向があるのかもしれませんが、私はあの時の行動は徘徊ではないと思っています。本人はトイレを探しているだけ。確かに迷子になってしまうけれど、父は目的をもって行動しているのです。
そんな父は2019年に旅立ちました。介護はイライラして怒鳴ってしまうこと、虚しくなって泣いてしまうこと、父の笑顔が見れて嬉しくなることなど、本当に色々な感情を味わいました。
約3年間の介護生活で感じたことは、介護は頑張りすぎてはいけない!上手に行政の力も借りながら、息抜きもしないと自分がダメになる!と心底思いました。
政治家になった理由
私は4人の子育て当事者として、育児をしながら介護をするダブルケア当事者として、政治にたくさん助けてもらいました。
出産育児一時金、医療費の無償化、児童手当の拡充、私立高校授業料の無償化など、政治の大切さを実感してきました。
そんな私が出馬することになるなんて…。
「育児や介護の経験を政治に活かしてほしい」と公明党の推薦をいただいたのが2022年。
はじめはずっとお断りしていましたが、自問自答を繰り返す中、「この経験が誰かの役に立つのなら、やらせていただこう…!」とストンを腹落ちする瞬間がありました。
子ども達も高齢者も、地域みんなで見守り、支えあえる優しい社会にしたい。
高齢者が住み慣れた場所で長く住み続けられるような環境をつくりたい。
そんな想いで挑んだ2023年の統一地方選挙。
皆様からのあたたかいご支援により当選をさせていただきました。
どんな小さな声もカタチしていける議員として、全力で走り抜いて参ります。
略歴
1967年 6月9日西荻の越川病院で産まれる
1974年 上荻2丁目にあった観音保育園卒園
1980年 杉並区立井荻小学校卒業
1983年 杉並区立荻窪中学校卒業
1986年 私立関東国際高校卒業
1988年 文化外国語専門学校卒業
1988年 株式会社エッサム入社
1997年 退社→実家を手伝う(石川電器自営)
1999年 公明文化協会入社
2000年 結婚
2001年 退社、長女出産
2016年 一凛(ラーメン屋)にてパート
2018年 株式会社ニチリョク入社
2022年 退社、公明党の推薦を受けて区議会議員に立候補
2023年 杉並区議会議員選挙 初当選